昭和49年03月01日 月次祭
今日は、おついたちのせいもあってで御座いましょう。大変遠方からの、御参りやらお届けやらが、多御座いました。宮崎、延岡、大分、熊本、佐賀、それから、鹿児島の種子島、それから、佐世保、北九州、福岡、久留米も近い所です。もうそれぞれにおかげを頂いて、一日の祈願のお参り又は、2月中おかげを頂いた、お礼参拝で御座いました。中でも今朝、朝の御祈念に、参って来ておりました、佐世保の方この元旦祭に私があの、私が皆さんに聞いて頂いた方なんです。今日初めての参拝です。
義理のお母さんがご信心になさって、熱心にになさって、今度の病気でもう愈々助からない、7日間も仮死状態にあったという人が、7日目からおかげを頂いて何とはなしに、ここの上が重たい、重たいというよりもきつい重たいじゃないけれども、有り難ぁい何か重たい物があると思うてはっと気付いた。気が付いた時には、ここに御神米がお祭りしてあった。その御神米を一粒づつ頂いて。
いわゆる回生のおかげを頂いた。それから間もなく大変なおかげを頂いたけれども、まぁ自宅で養生をされて、今日初めて自分で運転して、親戚の方達を乗せて、そしてのお礼参拝で御座いました。初めてだから私は知りませんでした。その方と言う事を。本当に広大なおかげを頂いて、有り難う御座いますと言うとここでお礼を申されました時に「おかげは筆にも口にも尽くされぬ程のおかげ」と言う事を頂きました。
あの元旦の朝分厚いお手紙の中に、自分が一粒の御神米によって助かるという、助かったと言う事を、もうこれ以上美しい文で、又是以上詳しくは書けないという位に、お礼の手紙が書いて御座いましたけれどもね、今日の私がその方がお参りをして、ここで頂きました事はね、「口にも筆にも尽くされぬ程のおかげ」と言う事でした。その事に付いて、お話を聞いて頂いたのです。信心は私共がもう本当に広大なおかげを頂きましたと、例えばいうておりましても、まだまだおかげというものは、私共の気が付かない、私共の知らない、私共ではまだ見る事も出来ない世界にです。
信心をしてお取次ぎを頂いて、おかげを受けると言う事は、そのおかげの分野というものはです、それはおかげと感じているのは氷山の一角であって、その根にある所のおかげというものは、筆にも口にも尽くす事の出来ない程しの、おかげを頂いておるのだ。おかげを頂いて有り難いと言うて、お礼参拝が出来て有り難いが、是からはその筆にも口にも尽くす事の出来ない程しの、おかげをおかげと一分ずつでも、一厘ずつでも広く深くおかげを、の世界を解って行くと言う事が、是からの信心だと言う御理解でした。
信心とは私共の今まで気が付かない、お願いをさして頂いておって、お取次ぎを頂いておって、見えておるおかげは、これだけなのだけれども、見えないおかげというのは、もう限りが無い事である。その限りないおかげを、おかげと分からして頂くと言う事が、信心が解かると言う事であり広く分かれば、信心が広くなったのであり、ふかく分かればそれだけ信、心が深くなったのですから、おかげもまた広くふかくおかげが受けられると言う事になります。
そういう意味で私どもは、合楽でおかげを頂いておるという、今も申しました様にですね。宮崎、延岡、大分、佐賀、熊本、それから種子島、種子島からはあの、お供えを送って来たんです。あちらのなんちゅうですか。いわゆる独特のポンカンっていうんですかな、大変ミカンがとっても美味しい。それを毎年送って来るんですけれども、今年も位置は子、丁度お月次際の準備しよるところに送って来た。だからそれが今日はそれがお供えがしてあります。
いうならば、熊本、佐賀、今申します様に、今日は佐世保からもご参拝があった。北九州、久留米、福岡っちゅうところは、まぁ近い所である。と言う様におかげの範囲がこうやって広く、大きくなって行っておると言う事はです、是はまぁいうなれば、私の信心が広く大ききなっておるんだと私は思います。是は私が二十数年ここのお取次ぎの御用さして頂いて、確信を持って申し上げられる事はです、心が大きくなれば、もう絶対大きなおかげが受けられる。
心が美しゅうなりゃ、おかげが麗しいおかげになって来る、と言う事なんです。そういう例えば、改まりに改まり、磨きに磨いてです、これで済んだとは思いません。とてもとてもまだまだ、で御座いますけれどもです、それに取り組んで精進しておると言う事。信心とはもう日々の改まりが第一であり、信心は本心の玉を磨くのが、信心であります。私は二、三日前お夢を頂いた。ここのご信者の皆さんと一緒に、大きな釜に白粥がいっぱい炊いてある。
お粥さんです。で皆さんにどうぞどうぞというたら、私は今食べて来ましたからていうて食べない人。まぁしょうことなしに、ちびちび食べておる人、もうそれに私だけは、もう実に美味しいんです。ですから、もうガブガブと大きなドンブリ、二杯も頂いたというお知らせであった。誰でも白粥というものは、病気の時位は頂きますけれども、普通は白粥だんというてから食べない。又は食べ切らん。それを私は美味しい美味しいというて、ガブガブ食べておる。
しかも大きなドンブリ二杯も頂いておる。そういうお夢でした。私共は信心をさせて頂いたてです、何でも美味しくガブガブ頂けれる様な、おかげを頂くと言う事なんです。どの様な、例え事であろうが問題であろうがね、それを美味しく頂くそれを渋々頂くのじゃない。だからはまりが違う。今日出来て参りました今月の、おかげの泉の最後の所に、ちょっと開いて見たら、そんな事が書いてあります。あぁいつかこんな御理解頂いたなぁと。例えば山中で猪に出会った、それこそ生命からがら逃げて来た。
恐かったえずかったと言うでしょう。所が銃を構えて猪撃ちに行った人ならば、それこそもうはぁ見つかった、と思うて構えるでしょう。猪撃ちに行っとるとじゃけん。だからそんなに違うんです。私共信心さして頂いてです、本当に心が豊かに大きくなりたい、本当に美しゅうなりたい。何でも合掌して受けさせて頂こう、そういういうならば獲物を目指してして、日々の信心が出来ておるとするならばです、どういう問題が起きても、そんなものは要らんということはないです。
それこそ成り行きを大切に頂いていけれるんです。問題は構えです。鉄砲持たずに山で猪に遭うたら、大変恐い思いをしなくてはならないけれども、猪撃ちに行っておる人は、そりゃ猪が出てきたから、恐くて逃げる訳はないでしょうもん。それを射止めるこそ今日の目的なのだから。私共が信心の徳を受けたい、力を受けたい、親先生是だけは確信を持っていえるということは、心が大きくなれば、大きなおかげが受けられるんだと、心美しくなりゃ美しい麗しいおかげになって来るんだと。
是はもう確信を持っていえること。これは私といっておるのですから、愈々麗しゅう、愈々大きく、愈々深く広く心を頂く、いわば稽古に日々ね、勤しまなければいかんのです。皆が勤しんでいない、人の話聞いておるだけ。鉄砲も担いどらんから、猪が飛び出して来ると、もうびっくり仰天してから逃げて行ってしまう。青うなって逃げる。是じゃ猪を射止める事は出来ません。私共が信心の心が開けて来ると言う事。
昨日私共の妹の、椛目の方です妹の主人に当たります私の妹婿になる訳ですが、亡くなりまして二十七回目ですか、目の帰幽祭で御座いました。お立ち日です式年というわけではないですけれども。子供達も皆んな学校もはよ帰って、そして私が昨日田主丸に参りますから、それ前に四時の御祈念に合わせて、お礼を申して頂きたいというてお礼をさして頂きました。そのお祭りに掛かろうとする前に、その三、四日前に妹がさほどの事はないと私は思うたけれども、妹にとってはそれこそ涙が出る程悲しい事であった。
そのお届けをした、もう私はあんた見損なうたと、たったそん位の事が悲しいっちやと。けれどもしかし本人は悲しいのだから仕方がない。毎日朝の御祈念に参ってまいりますが、ここ二、三日のご理解を頂いて行く内にです、本当に悲しいだんじゃなかった、お礼ば申しあげなければならない、と言う事が解って来た。問題は一つも変わっていない、けれどもその悲しいと思っておった問題が、段々有り難くなって来た。お礼を申し上げて下さいという、そのお届けであった。
神様から御霊様にご挨拶させて頂く時にです、御霊様のまぁ言葉を解り易くいうならです、朝晩、兄さん、私は兄に当たりますから、兄さんの手厚い御祈念を頂いてです。もう何一つ望む事もね、わざわざお祭をして頂かなくても、良い程しのおかげを頂いておりますけれども、いわゆる家内である、スマ代の事、妹の事である。今日のね。今日の例えば問題は一つも変わってはいない、三日前とけれども、その事が涙の出る程悲しい事がです、それはお礼を申し上げねばならない事。
有り難い事だと解りましたというた、あの一言が何よりものお供えだったという意味の事を頂きました。いうならばです、心に翻然として悟らして貰うたと言う事。是は宗教の言葉。悟るという。悟りというのは、今まで苦しい苦しいと思うておった事がです。一旦心の目で開けて参りますと、苦しいだんではない、それこそ悲しい涙がありがた涙に、変えられるというのが悟りです。その心がです何よりものお供えであったと、御霊はいっております。御霊が喜ばれる、自分自身も助かる事なんです。
私信心というのはです、そういう心の助かりを願い求めての在り方にならなければならない。その心が救われる事の為に、御理解を頂く修行をさして貰う。そこから心が愈々広うなって来る、心がいよいよ美しゅうなって来るね、心が段々有り難くなって来る悲しい涙を流しておる人を、見ていわば私は反対にお礼を申し上げなければならない事なのにと思うのですけれども、本人は矢張り悲しいのである。けれども心が開けて来るとその問題はそのままなのだけれどもです、お礼を申し上げる心が開けて来る。
そういう心が間違い無く開けて来るところから、その悲しかったという問題は解消するでしょうし。それが返っておかげの元になって、次のおかげの飛躍になって行くというのが、金光様のご信心のおかげであります。お互いが今のままで良いとは思われません。より有り難いおかげ、より力をより光を頂かして貰わなければなりません。その為にはここで色々に、その稽古の手立てというか、信心の進め方というか、教えて頂くのですから、それを私共が間違いなく行じようという姿勢を作らなければ駄目です。
其処からのおかげを受けさせて貰う。この位な事には驚いとったものが、こんな大きな事でも驚かんで済むということは、心が大きくなるということ。今日先程(げんちょう)が来ておるということでしたが(げんちょう)を私も一通り見せてもらった。中に信心問答の中に、道徳と宗教の相違点を述べて下さいという質問に対してです、答えておられるのが、私はどうも合点の行かない様な事だ、私ならばどう答えるであろうかと、自分で思うてみた。同じ様に見えるのです。道徳と宗教は。
例えば道徳的修養を積んで心が広うなる。心が美しゅうなる。けれどもおかげは伴いません。教祖様のみ教えを頂いて信心によってです、心が美しゅうなり広うなったら、おかげが麗しゅうなりおかげが大きくなって参ります。それが違うのですもう簡単な事です。宗教と道徳の相違はそうなのです。いうておる事行なうておる事は同んなじでありましても、道徳によって心が大きくなって修養したというてもです、所謂精神に甘んじた一生であったということに終わってしまうのです。
それではつまらんですね。私共はそう思うです。いや、もう清らかに正直に一生行き抜いたらそれでええ。それではあの世に持って行く物もありません。信心はそうではありません。心が大きゅうなったら必ず、おかげが大きゅうなって来ます。心が美しゅうなったら、必ずおかげが麗しいものになって参ります。広くなれば広く、深くなれば深く。その違いを私どもは宗教に、頂いておるわけで御座います。そしてなら私が確信を持って申し上げられる事。
それにはです私共のいうならば心が大きゅうなれば、おかげが必ず大きくなるということ。受け物が出来れば、絶対のおかげが受けられると言う事。だから、おかげの受け物を作る事に、きゅうきゅうとするのではなくて、そのおかげの受け物が出来て行く事を喜びとし、楽しみとしての信心を頂いて行かなければならんのです。それを楽しゅう出来れる道を、合楽では、皆さん日々聞いて頂いていると私は思うのです。信心によって馬鹿と阿呆で道を開けという様な教えが御座います。
私共が愈々信心によって馬鹿と阿呆にならせて頂く、おかげを頂くと言う事はもう底が抜けた程に、心が大きくなると言う事です。いうなら悲しくもない事が起こっても悲しくありません。腹が立つ様な問題があっても腹が立ちません。ですからそこにはもうそれこそ限りない向こうの方は開けっぱなしという程の、おかげが受けられるのです。先日も私は、あるお願いをさして貰よりましたら、私自身の部屋にルームクーラーが付いております。それは大変難儀な問題でした。
其の事をお願いさして頂いておりましたら、そのルームクーラーをこう取り除く所を頂きました。ですからもう向こうの方は、うっぽんぽんに耳納山まで見えるという感じなんです。ルームクーラと言う事は、暑い時に涼しい思いをするために付けてあるのですけれども、それで私は思いました。私度もが楽はせんぞという気にならせて頂けば、おかげは向こうの方へ、もう開けっぱなしだ、と言う事です。私共がね楽もカツガツ、苦もカツガツといった様な事を申しますけれども、それでは信心になりません。
所謂姿勢を本気に作ってです、もう楽はせんぞという心になりますと、そのルームクーラーを取り除いた様な物ですから、向こうの方を開けっぱなしに、ずうっとその自然の風物が見られる様にね、自然のおかげというものは、そこから限りなく頂けて来るのです。そうすれば、なら一生苦労のし人かというとそうではない。神様がさして下さる楽がある。楽はいわばさせて頂かなければいけません。自分でしようと思うてはいけません。もう楽はさせて頂くのです。自分でしようという楽はね。
楽しようと思うて楽な思いは致しません。結果においては。けれども神様が許して下さる楽は、本当にこげな極楽があるだろうか、こんな面白い事なかった。こんな楽しい事はなかったという、楽が必ず与えられます。是は今日私が申します、愈々大きな豊かなおかげを頂かして貰う為にですね。そういう意味での修行をなさいますと、修行が楽しゅう、それにおかげが伴うて来るからなお楽しゅうなって来る訳であります。どうぞ私共信心をさして頂いておる。お
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